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  • 執筆者の写真馬原颯貴

朗読×演劇 ある日の事でございます。ver 1.1 を終えて。

888企劃の馬原颯貴です。


888企劃舞台作品 朗読×演劇 ある日の事でございます。ver 1.1 が無事終了しました。

てあとるらぽうにご来場の皆様方、誠にありがとうございました。

四日間全6ステージ、今までの888企劃にしては短い期間でしたが、それ以上にあっという間にすぎた四日間でした。

この「ある日」を振り返ってみて、思ったこと、考えていたことをつらつら述べようかと思います。皆様にとっては蛇足に思える部分もあるかと思いますが、そこはご了承くださいませ。


まず、前説についてご説明致しましょう。

この前説は、「言語ジャック - 新幹線・車内案内」という、四元康祐さんの詩の手法を用いたものです。近しい音節や語感のもので、別の内容を表していて、これがまた奇妙で、ストンと腑に落ちる。

そして「蜘蛛の糸」を早々に朗読してしまうことで、物語への没入を早めるという効果もありました。かなり強引にお客様の拍手を誘う形になっていてハラハラしていましたが、みなさんしっかり拍手して下すったので嬉しく思います。

前説の全文を掲載しておきますので、よろしければご覧ください。



また、この舞台に使われた音楽も、毎度のことながら僕が作った音楽でした。

静かでいて、不思議な空気を創造したくて、今回客入れからエンディングの曲まで全て作り直しました。転換の音楽は前回と同じものも使っております。

基本的にピアノと弦楽器、それと一部ピアニカとグロッケン、オーボエ、フルート、ファゴットなどの音も入っています。同じ曲を、テンポを変えたり調を変えたりしていたり。

一曲だけ、♩=108 の速度で108小節にして、煩悩と同じ数時を刻む、という意味を持たせたりしたのですが、当然誰も気付く訳がなく……。こういうところでしか語ることができませんね、これは。

曲にはタイトルがついていて、今回転換曲以外、「T」から始まる単語になっています。

「Tick」「Tuck」「Talk」「Take」「Through」「Time」等々。

檸檬を乗せる時の曲は「Time,is,now」。今がその時。そのままですね。

終演後の曲は「Time,After,Time」。また後で。お客様と、また劇場で会いたいという気持ちが込められています。

曲自体は早々に出来上がったので、台本とにらめっこして演出プランを練ったり、稽古場に向かう時など、長い間聞き込んでおりました。

開場中の曲は結構気に入っているので、次回も使おうかと思っています。いつか物販で販売したい気もあるのですが、欲しい人なんているんでしょうか……? 反響があれば、検討します。


さて、では戯曲自体の話にまいりましょう。

最初に「朗読×演劇 ある日の事でございます。」という戯曲を書いたのは、何年前のことだったか……。5年? くらい前かな?

僕は以前名古屋で舞台をやっていた時に、小田靖幸さんという劇作家・演出家のもとでお世話になったのですが、その方の「なんかの本で読んだ……。」という戯曲が大好きでした。日本童話編と世界童話編という風にいくつかシリーズかあって、僕は先述した2作品を演じる機会をいただきました。

内容は、なんかの本で読んだことがあるような物語を人間が思い出していく……というものなのですが、僕はそのシリーズの「日本文学編」に相当するつもりで、この「ある日」を書きました。


日本文学というのは認知度にばらつきがあります。名前は知っていても、内容は知らないものも多い。学校で習ったはずのものでも、結構忘れてしまっていたり。国語の授業で習った作品を全部覚えているか? と言われても、よほどの記憶力を持つものでなければイェスとは言えないでしょう。

というわけでこの作品は、僕の中で三段階の認知度レベルで構成されました。


内容も知られているであろう認知度レベル3。

「蜘蛛の糸」、「雨ニモマケズ」がこのランクに入ります。「山月記」と「高瀬舟」もギリギリここ。

名前は知ってても読んだことはないかも、という認知度レベル2。

「吾輩は猫である」は、実際読んだことのある人はあまりいないのではないでしょうか。夏目漱石だと「こころ」の方が既読者は多いはず。梶井基次郎の「檸檬」はここに入るか微妙なところです。ちょっとコアな作品。

知っている人はあまりいないのでは? という認知度レベル1。

「ドグラ・マグラ」「堕落論」は、文学ファンや何かの手違いで手にしてしまった人でなければ、まず読まないでしょう。


では、各作品について少しお話を。


「吾輩は猫である」が、猫の一人称で語られる作品であることは周知のはず。今回は猫カフェの猫たちの話になりました。

「吾輩」が転生した先は現代の猫カフェ。そこの猫たちは、人間が伺い知ることのできない思想を持っているでしょう。

最近、詩人の長田弘さんの「猫のボブ」という作品と触れる機会をいただきました。

ボブは問います。「平和って何?」そして気づきます。「すべて小さなものは偉大だと」

吾輩も、考えます。「太平とは」 そして死の間際に悟ります。「太平は、死なねば得られぬ」

どの時代も、猫が平和(=太平)に対して疑問を覚え、そしてありふれたものであることに気づく。

僕は猫が好きです。猫カフェにも何度か足を運びました。いつか飼いたいと思っています。

でも、自由気ままに生きる彼らを縛るような人間には、なりたくないですね。それは人間のエゴかもしれません。


「雨ニモマケズ」は、実在した「雨ニモマケズ論争」を舞台化する、という構成です。

劇中で男が言うように、「北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろ」と言う一文があるのにもかかわらず、その文を研究するものたちが喧嘩をする。討論をする。それって矛盾だとは思いませんか。断罪したいわけではないのです。ただその状況があまりにおかしかったのです。

みんなに木偶の坊と呼ばれ、褒められも、苦にもされない。

本当に、そう言う人に成りたいものでしょうか。

もう一度、自分がどう言う人間になりたいかを考える機会になれば嬉しく思います。僕はなりたくないですけど。


「山月記」は、僕は国語の授業で習ったのですが、作中の「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と言うセリフにのみ特化したお話です。この戯曲の中で最もどうでもいい話です。この戯曲は喜劇(コメディ)ではなく、笑劇(ファルス)として書きました。状況のおかしさを笑うための戯曲です。そう言う意味では「山月記」は一番必要な部分なのかもしれませんが……。

虎になった李徴の声を一言で判別する袁傪って、ダメ絶対音感(声を聞いて一瞬で声優を判別するサブカル技能)の持ち主なんじゃね? と思って書いたお話です。

スラップスティックコメディの要素を持ったこの「山月記」、これだけで、もしたしたら一本舞台が書けるかもしれませんね。


「堕落論」は、戦後における日本人のあり方について語られた随筆、つまりエッセイです。

これはなかなか既読者がいないだろうということで、作中で説明することになりました。

堕落してこそ、本来の人間の姿になる。そんな人間の有り様を、極限状態の二人に置き換えてみました。

「冷たい方程式」にも似た、人間らしさのお話。これも、この設定だけで一本書けそうな気がします。

男性二人版という構図も考えたんですが……。なんか人類存亡とか無視して二人でゲームばっかやってそうな気がしませんか。


「ドグラ・マグラ」は三大探偵奇書の一つと言われていて、「本書を読破したものは、必ず一度は精神に異常をきたす」と帯に書かれることも多い、誠に不可思議な小説です。

角川文庫版の表紙が独特すぎて狂気を感じます。そんな隠し方があるか。

今回、この作品を舞台にするにあたり、研究資料を閲覧するシーンを取り出してみました。ある意味、原作に最も忠実なのかもしれません。ちゃんとドグマグの説明もしてますし。


「高瀬舟」は授業でやったかと思います。安楽死の是非を問う話として有名なものです。

喜助には悪いが、この話に裏があったら、というIFストーリーに改変しました。


そして「檸檬」。

檸檬の認知度は、高いといえば高いし、薄いといえば薄い。この話の存在を聞けば読まずにはいられない。が、知らないものは知らないでしょう。

詩的に綴られた文章、なんともいえない漫然とした感情に突き動かされ、丸善で本を積み上げる。

そして最後に檸檬を乗せると、なんだかスッキリした気分になる。

ただそれだけの話です。

初めて読んだのは中学生の頃だったかと思います。僕はこの話がとても気に入りました。

なんだかよくわからない話を好きでいることが、文学ファンらしいように思えたのです。

そしてこの戯曲を書こうとした時、ふっと「蜘蛛の糸」と「檸檬」がリンクしました。

なぜ本を積み上げたのか。なぜ檸檬を乗せたのか。

その理由が、どうも賽の河原の石積みに思えて仕方なかったのです。

文学作品をテーマに話を積み上げようとした時、「蜘蛛の糸」で始まり、「檸檬」で終わるという構図が初めに決まりました。

地獄に落ちたカンダタ。それを掬い上げる蜘蛛の糸。

地獄に落ちた男。罪を認め、反省し、償うまでの過程。

この戯曲は、すべて地獄において行われたごっこ遊び。

「読書地獄」によって想像される地獄のパノラマ絵。

エゴ、諍い、傲慢、堕落、狂気。

そんな走馬灯のようなテーマの末に、明かされる高瀬舟の仮説。

カンダタ(=喜助)は、そんな人間の悪さをまざまざと見せつけられ、改心し、償うために本を積みます。

これは、地獄に落ちた人を掬い上げるお話でした。


「朗読×演劇」と表題しておりますが、実はこれは嘘なのです。

嘘を看板にしています。ミスリードです。実際ただの演劇です。

役者が本を朗読しているのではなく、カンダタが読んでいるだけなのです。

嘘をついてすみません。


以下は与太話。


山月記は、詩人になりたかった李徴が諦めて定職につき、そのことに絶望し虎へと姿を変えるお話です。

役者として生きたかったが才能や機会に恵まれず、諦めて定職に着く人間が一定数いることでしょう。おそらく、あのカフェで店員をしていた声優も、一度は諦め、定職に着こうとしたのです。でも彼女は、必死にその道にしがみついた。一応は声優として成功し、アルバイトをしながら頑張っているんだと思います。

その様は、きっと成功していた場合の李徴のようなのではないでしょうか。

虎へと変身した李徴に対し、ミーコちゃんは整形(変身)というキーワードを使ってオタクを撃退します。なんて、まあ、後付けかもしれませんが……。

堕落論において、なぜ三つだけコクーンが残っていたのか、またそこから男が出てくる可能性を低く見積もっていたのかは、シチュエーション上必要だからという言い訳をせざるを得ないのですが、きっとコクーンの設定に坂口安吾の情報が組み込まれていたからではないでしょうか。


坂口安吾は堕落論の中でこう言っています。「私は二十の美女を好む」。これマジで言ってるんです。コクーンが成人するまで人を出さないのは、ひょっとしたらそんな理由かもしれません。二十の美女ばかりが生まれたら、きっと未来はハーレムでしょう。よかったね、安吾。

あ、一応裏設定として、コクーンの不具合という真面目な理由も考えていました。ただ、説明する必要はない気がしたし、その時間もあまりなかった。

最初にいた女が、日記や過去の記録から、コクーンからなぜか女性ばかりが生まれ続けるという現象が起きていたことを推測します。そして他の地区の施設を探すためにアクティングスーツを着て全員で探索に行ったのでしょう。男を求めて。


これも推測ではありますが、コクーン設備を作った時代、つまり人類保存計画の段階で、女性しか作られないのではという危惧を抱いた一人の研究員がいたりして、その人がこの三体のコクーンにだけ仕掛けを施し、然るべきタイミングで起動しないようにしたのかもしれませんね。なんだかハリウッド映画ばりのお話になってきました。

少し前に「パッセンジャー」という映画がありましたが、きっとあんな感じだったのではないでしょうか? ま、僕の堕落論の方が先ですけど……。


ドグラ・マグラは時計の鐘の音で始まり、同じ時計の鐘の音で終わりますが、その次の話高瀬舟の冒頭には、「入相の鐘のなる頃に漕ぎ出された高瀬舟は……」という一文があります。この鐘の音は、きっとドグラ・マグラの鐘の音でしょう。


以上で与太話は終わり。他にもなんか色々考えてた気がしますが……。ま、お客様が感じてくれてれば嬉しいです。


僕は作品を作る上で、「面白さ」を追求しております。それはfunnyな面白さよりも、interestingの方の面白さ。興味深さ。

自分が面白いと思った作品が、なぜ面白いのかの理由を分析し、それを自分の作品にも生かそうと思っているのです。

僕が好きな人を問われれば、西尾維新、時雨沢恵一、小林賢太郎の三人をあげるでしょう。僕の価値観はこの三人によって構成されたと言っていい。

だから、似てると言われることは気分の悪いことではありません。が、決してパクリではないのだと強く念を押しておきたい。僕は別に、彼らに成り代わりたいわけではないのです。新しい「馬原颯貴」という表現者になりたい。

社会風刺や、言葉遊びの魅力、物語の上でどういうものが魅力を持つのか、そういったものを、僕はこの三人から学びました。それを僕なりに噛み砕いて、咀嚼し、反芻し、そうして出来上がったものたちは、きっと「馬原らしさ」となるでしょう。当然、他のアーティストや作品から学ぶものも数多くあると思います、そうして、インプットして、馬原颯貴という存在になるのです。それがしっかり芽を出すまで、どうか見守っていてください。

もしかしたら、明日はシェイクスピアに傾倒しているかもしれませんが。





さてさて、今回この戯曲の話をする上で、語らなければならないことがあります。

少し重い話です。


僕が名古屋から東京に上京してしばらくが経過したある夏の日のことです。

親友が、自ら首を吊ってこの世を去りました。

しばらく、夢には彼が出てきてばかりでした。

なぜ話してくれなかったんだろう、なぜ死を選んでしまったんだろう、追い詰められていたのであれば、それを話してくれればよかったじゃないか。

それが僕自身のエゴだとわかっていても、僕らを互いに親友だと言っていた彼が、そんな選択をしてしまったことを、許せなかったのです。

悲劇の主人公になったつもりはありません。僕はおそらく、生きていて、親戚以外の死にあまり触れてこなかっただけで、きっと日本中には、当時22歳で友人や知り合いの、死や自殺を経験している人たちもいるでしょうから。

でも僕は彼を、許せませんでした。

だから許そうと思いました。

舞台にして、消化して、昇華しようと思いました。

親より先に死んだ子供が、地獄の、三途の河原のほとりで石を積む。親不孝の罰で。

そして、その石を積み上げることで、許される。

僕は許せませんでしたから、お釈迦様に、お客様に、許してもらおうと思いました。

これで許せた気になろうと思ったのです。


これは、僕のエゴの話です。


さてさて、だらだらと長文を書いておりますが、そろそろこれにておしまいにしようと思います。

次回公演「テツガクするキカイ」。これもまた、不可思議なお話になる予定です。

また劇場で、お会いいたしましょう。

6月4日 馬原颯貴

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